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蛾類学会コラム18 蛾と我

ウチダ リナ

ここが世界なのであれば、あの内側もまた世界なのではないか。

「死への羽ばたきへのオマージュ2018」焦がした和紙・和紙・のり・和紙糸・木枠 飯森政宏撮影、提供

私が蛾に強く惹かれたのは浪人生だったときだと思う。小学生の時は蝶のモチーフが好きでよく物を集めていたが、ある日、モチーフになっている時の蝶って死んでるやつじゃん。標本じゃんっと気づいて、それ以降蝶モチーフの物を買うときはかなりシビアに選ぶようになってしまった。美術の受験を目指すようになってからは蝶への興味が薄れていたが、ある日家の門の前に「ウンモンスズメ」が居た。正直に言えば、その時点ではなんなのかわからなかった。虫、蝶ではない、これは、なんなのか。蝶でないとすると蛾?とにかく惹かれた。ただ美しかった。魅了、それこそ蠱惑。急いで出かけたいにもかかわらず、目が離せなかった。図書館で昆虫図鑑を必死に探したのは初めてかもしれない。とにかくなんなのか知りたくて、ようやくここで「ウンモンスズメ」を見つけることができた。いろいろ興味はあった方だが「蛾」をよく見た事がなかったのだ。この時から、私の興味を惹きつけて離さない、それが蛾の存在となった。
作品を展示していると、中年の女性がよく言う。「蛾ってよく見た事がなかったわ」私も同じであった。そしてその後口をそろえて言う。「意外と綺麗なのね」と。私が美術を通してできることはつまりこういうことなのかもしれない。小説家が恋愛を擬似的に回遊させてくれること。板前が食べ方の知らなかった魚を調理してくれること。それらと同じように私は美術を通して他者に「魅力」をおすそ分けする事が可能なのかもしれない。

「ここが世界なのであれば、あの内側もまた世界なのではないか」
この書きだしは、今制作しているシリーズ「AMADEUS」という作品たち。蛹や人の皮膚のような膜、覆われているものについて、のキャッチコピーである。現代において社会的な問題を取扱う美術作品は決して少なくない。私は作品作りのテーマとするのに「覆われたもの」というのはこの時代においてとてもシンボリックではないかと考えた。蛾を中心に私の頭から繋がっていったものたちは、膜を隔て世界を内と外とで分断している。私には、友人にマリア観音を研究している女性が居る。興味があったものの今までは詳しくは知らないジャンルであった。このマリア観音という存在もまた先のように「覆われた」ものである、しかし、覆われた布の隙間から、像の顔がふと覗くのである。これはどういう状態か。シリーズ「AMADEUS」の由来は、モーツァルトのミドルネームから拝借している。映画「アマデウス」ではモーツァルトの最期が描かれる。暗くて寂しい共同墓地に、白い死体袋に入れられたモーツァルトの遺体が投げ込まれる。たくさんの石灰がかけられて、死体袋はどんどん埋まってゆく。アマデウスの意味をご存知だろうか。神に愛される。神の愛する。という意味があるらしい。才能豊かで神に愛されたモーツァルトは、最期、正体を覆われて匿名になり、土の中へと沈んでいった。近年、残念ながらこの光景は戦争を知らない私達でもよく見るようになってしまった。東日本大震災、シリア、難民。たくさんの、袋に覆われた遺体が並んでいる光景をよく見るようになった。それらの死体袋の口がそっと閉じられて行くとき、いつか見た光景が蘇る。マリア観音の顔が布の襞から覗く瞬間。あれはつまり、この世とあの世の一瞬の裂け目のようなものであるのではないかと。この袋(膜)を通してあちらとこちらの世界を隔てている。マリア観音は、裂け目。つまりこの世でもなくあの世でもない場所に立っている。世界の境界にひっそりと佇んでいるのではないか。

私たちは、母という袋から隙間を見つけてやってくる。蛾の成虫もまた、蛹や繭といった膜の中から世界に切れ目を入れてやってくる。そして最期、私たちはまたその時折の袋の中へと還っていく。

そういえば、蛾は私たちとは違う最期を迎える。道の端に死んでいる蛾を少し寂しく思うのは私たちのように還る袋がないからかも知れない。蛾と私は離れた生き物だとはどこかわかりつつも共通点を探してしまうこの感覚がなんなのか。私が人生を重ねていくにつれ、まだまだ見つかる点を線で繋いでいくよう、作品を作り続ける。

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Last update: 17 Feb, 2019